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ダメだったらゼロからやり直せばいい

<ベンチャースピリッツ>テンプスタッフ 篠原欣子社長

篠原欣子(しのはら・よしこ)社長/文・市川昭彦(2008年05月29日更新)

年前、「人材派遣」という新しいビジネスをゼロから作り出した女性社長は、今や“世界最強の女性経営者”の1人と呼ばれるまでになった。就職、結婚、離婚、留学、海外での就職、そして起業――。常に“初めて”のことに挑戦し続けてきたその半生は、そのまま戦後を生きた日本女性の自立の歴史でもある。

机1つ電話1本から始まった会社だから社長室はいらない

世界最強の女性経営者.――。米経済誌『フォーチュン』が毎年発表している世界の女性経営者ランキングである。そのトップ50人に、篠原欣子は、2000年から8年連続で選ばれている。

日本で認知のない人材派遣業を創業し、今年で設立35年を迎える。そして今や、年間売上高2000億円を超える総合人材サービス業へと成長を遂げた。この実績を見れば、“最強”の名にふさわしい“女傑”を連想するが、目の前に現われたのは、身長が150cmの小柄で華奢女性だった。話し始めれば、早口でよく笑う気さくな“世話好きのお母さん”。それが篠原の第一印象である。気取りのなさは仕事への姿勢からもうかがえる。

東京・代々木のオフィスビルの一画を占めるテンプスタッフの本社には社長室がない。広いフロアの隅に社員とデスクを並べ、てきぱきと指示を出すその姿は、社長というよりも、敏腕の女性管理職のようでもある。
「社長室を置かないのは必要ないから。事業をまったくゼロから始めたから、無駄なことにはとことんケチケチする習慣が身についているのでしょうか」
篠原は事もなげに笑う。

73年5月。東京・六本木に創業したばかりのオフィスには、机1つ、電話1本しかなかった。社員は篠原1人。当時38歳の篠原は「会社」に関する知識すらなかった。
「公認会計士に『株式会社を作るには7人の署名が必要』と言われて。で、菓子折りを持って、親や親戚を回って『名前を貸してください』と三文判を捺してもらって(笑)」まさにゼロからの出発。その分、気負いもなかった。

「ダメだったら、やめちゃえばいいって、軽い気持ちで始めましたから。だいたい、社長になろうとか、会社を大きくしようなんて、当時は思ってもいませんでした。必要な時に必要な人材を派遣できる、そういう便利なビジネスがあればいいなあって、それだけの発想でしたから」

篠原は拍子抜けするほどあっさりと振り返るが、当時、派遣ビジネスなるものは外資系を除けば、まだ日本にはほとんど普及していなかった。海のものとも山のものともつかぬ新しいビジネスに、成算などありようもなかったのだ。

71~73年までオーストラリアの市場調査会社に在籍。この時「人材派遣」というビジネスの存在を初めて知った。
71~73年までオーストラリアの市場調査会社に在籍。この時「人材派遣」というビジネスの存在を初めて知った。


留学と海外での就職が「自立した女」を目覚めさせた

1934年に神奈川県で生まれた篠原は高校卒業後の53年、三菱重工業に就職した。22歳の時、結婚直前で婚約破棄となる。会社はすでに退職していた。実家で家事手伝いをしながら数年を過ごした後、58年、26歳の時に東洋電業に再就職。今度は結婚するのだが、わずか1年で篠原のほうから家を出る。

離婚後、いったんは復職したが、その頃から、篠原の胸のうちには、ある思いが膨らみ始めていた。「母親のような自立した女性になりたい」。篠原は母の影響を強く受けて育った。篠原が8歳の時、小学校の校長先生だった父親が病死。母親は助産師の仕事をしながら5人の子供たちを育てた。当時、資格をもって働く自立した女性は珍しかった。そんな母のように生きたいと思った。

66年、32歳の時に海外留学を決意する。スイスからイギリスへ渡って秘書学と英文タイプを学んだ。イギリスで3年ほど過ごし、いったん帰国した後、今度はオーストラリアへ行き、小さな市場調査会社に就職する。そこで初めて「人材派遣」というビジネスがあることを知る。

「誰かが1週間休むと、代わりの人が来て仕事をする。1週間が経って休んだ人が出てくると、その人はいなくなる。あれは何ですかって聞いたら、『人材派遣』だと教えてくれたのです。これは便利だなって思いました。でも、その時はそれを仕事にしようなんて思わなかった」

帰国して海外で学んだキャリアを生かそうと就職活動をする。だが当時の日本企業はまだまだ女性に門戸を開いていなかった。
「日本企業では、女の人がいくら一生懸命に頑張っても“お手伝い”でしかない。それに比べて海外では女性が生き生きと働いていました。それに刺激を受けたのでしょうね。自分も何かできるのではないかって。そうだ、オーストラリアで見た人材派遣の仕事をやってみようかなと」

そして、「机1つ電話1本」でテンプスタッフを設立する。資本金は100万円。すぐに底をついた。昼は手書きのパンフレットを持って企業を回り、夜は自ら英会話教室を開いて日銭を稼いだ。やがて少しずつ得意先が増え始める。

「ラッキーだったのは、外資系企業がちょうど日本に入ってきた時期で、しかも外資系は六本木周辺に集まっていたことです。外資系は日本に来て即戦力の人材を求めていましたが、それに応えるビジネスがなかったんですね。最初はそういう外資系企業が私に依頼してくださったのです」

派遣ビジネスは徐々に軌道に乗り始める。ところが、大きな壁にぶつかった。篠原はある日、職業安定所に呼び出されて言われた。「あなたのやっていることは法律違反です」。人材派遣という業態がほとんど存在しなかった当時、法的にもまだ整備されていなかったのである。

「すっかり落ち込んで、もうやめちゃおうと思ってオフィスに帰ると、お客様から電話がかかってくるんです。『この間、派遣で来てくれた人はよかったから、またお願いします』って。派遣したスタッフからも、『ああいう仕事があったらまた紹介してください』と電話が来る。頼られると、またやらなきゃって思うんです。でもしばらくするとまた呼び出されて……。その繰り返し」

やがて同業の人材派遣会社が少しずつ増えてくる。同業者が集まって勉強し、労働省や職安にも足を運んだ。欧米の派遣会社を見学にも行った。やがて法的に整備され、人材派遣業という新ビジネスは認知されていった。

業績停滞や「個人情報流出」のピンチをチャンスに変えた

会社設立から15年が目前になった頃には、社員数が100人ほどになり、年間売上高も100億円に近づいた。だが、もう1つの壁にぶつかる。急拡大していた売り上げが伸び悩むようになった。企業は設立10年目くらいに、伸び続けるか、もう伸びないかの岐路に立つ。当時のテンプスタッフは後者の状態にあった。創業以来、ほとんど女子社員ばかりの“女の園”だったことに、ひとつの原因があると篠原は思った。

「女性は安定志向が強いせいか、当時の女性支店長たちから『私たち、ちゃんとやってますから。これ以上、売り上げは伸ばせません』と言われて、私もしようがないのかな、と。そんな時、ある支店に男性アルバイトが入ってきたんです。そうしたら、その支店がにわかに勢いづいて売り上げが伸びてきたのですよ」創業16年目の88年にはリクルートの男性営業マンを引き抜くなどして男性社員の比率を高めていった。男性社員の力を生かすために、古くからいる女性支店長をバックオフィスへ異動という大胆な人事も断行した。

「女性社員から『社長は冷たい』とか『私たちは、もういらないのでしょうか』とか、毎晩、電話がかかってくる。電話を切ってからこっちのほうが泣いて葛藤がありました」模索しながらもテンプスタッフの売り上げは再び伸び始めた。

「男性が入ってきたことが刺激になったと思いますが、これはひとつの事象にすぎず、組織には絶えず新しい風が必要だということなのですね」女と男との違い。それをもう一度、実感したのはバブルの頃だ。ある男性幹部が50億円でビル1棟を買いましょうと提案してきた。当時は年率30%も不動産価格が上昇していた時代。篠原も最初こそ承諾したが、契約調印の前日になって、買うべきではないと決断する。

「この仕事は立派な本社ビルよりも支店を展開しないと伸びない。ゼロから始めたからこそ、肌でそう感じたんです」男性役員は直前のキャンセルなどできないと反発した。篠原は1人で大手不動産会社を訪ねた。
「偉い人が数人出てきて2時間たっぷり嫌味を言われましたよ。ここで耐えなければ会社がだめになる。それに、私には面子も何もないからできたんでしょうね」

不動産バブルが崩壊したのはそれから間もなくだった。98年8月には人材派遣業界全体を巻き込む大事件が起こる。登録スタッフの個人情報が流出したのだ。個人の登録スタッフに支えられる人材派遣業にとって最大のピンチだった。謝罪する篠原の姿はテレビのニュースで繰り返し流れた。

「ご迷惑をおかけした皆様には申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも会社って、危機の乗り切り方によって、その後が決まると思います。あの時は全社員が一致団結して体制の立て直しに協力してくれて、結果的にピンチをチャンスに変えることができました」

左/女性の就業支援の一環として運営する保育園「ピュア・テンプ代々木」。広く一般の女性が利用するための保育園だ。右/グループ会社のグッドジョブは、05年から無料託児サービス付き登録説明会を開催。女性の就業支援に力を入れている。
左/女性の就業支援の一環として運営する保育園「ピュア・テンプ代々木」。広く一般の女性が利用するための保育園だ。右/グループ会社のグッドジョブは、05年から無料託児サービス付き登録説明会を開催。女性の就業支援に力を入れている。


子育て女性や団塊世代派遣のニーズはまだまだある

06年3月、テンプスタッフは東証1部に上場した。名実ともに一流企業の仲間入りを果たしたのである。実は、それ以前にも上場の準備をしていながら直前になって取りやめている。かつて50億円のビル購入を直前にキャンセルした時のように、上場の取りやめも準備を進めたうえでのギリギリの決断だった。そうした経緯を経たうえでの満を持しての上場だった。

テンプスタッフは創業以来、人材ビジネスを柱とし、アウトソーシング(外部委託)や再就職支援事業、教育研修事業などにも業務を拡大してきた。それらの業態ごとに分社化を進め、人材紹介・転職支援の「テンプスタッフ・キャリア」、営業・販売向けの「テンプスタッフマーケティング」など、関連会社は40社以上にもおよぶ。サービスの窓口となるサービスネットワークは07年12月で国内273カ所、海外11カ所に展開している。

こうした業務の拡大が功を奏し、08年3月中間期は売上高(1170億円)、経常利益(54億4800万円)、純利益(27億3000万円)とも過去最高を更新した。
「創業当時、こんなに大きくなるとは夢にも思わなかった」という篠原は、今後、テンプスタッフをどんな方向に導こうとしているのか。

「派遣や人材紹介のニーズはまだまだあります。力を入れたいのは子育て中の女性の就業支援。職住接近で短時間の仕事の紹介や保育所の育児支援など。団塊世代の就業支援にも力を注ぎたい。医療やIT、金融などスペシャリストの分野での派遣事業も伸びると思っています」夢は日本国内にとどまらない。「今後はアジアですね。人材ビジネスが伸びる可能性は大きいと思います」

篠原は女性が働くことが珍しかった時代に会社員となった。さらに留学、海外での勤務、そしてゼロからの起業と、篠原の半生は戦後の“女はじめて物語”を地でいく。新しいことに挑戦し、何度も挫折しながら、それをバネに未来を切り開いてきたエネルギーの源はどこにあるのか。

「やはり母親だと思います。自分の人生は自分で切り開く、母はそういう生き方を身をもって教えてくれました」
母から娘へ。2代にわたる「自立した女」の物語がそこにはあった。(敬称略)



【プロフィール】
篠原欣子(しのはら・よしこ)社長
1934年神奈川県生まれ。8歳の時に父親が病死。53年高木商業高等学校卒業後、三菱重工業に入社。57年退社。58年東洋電業入社。60年結婚を機に退社するが、離婚後、復職。66年スイスに留学。翌年イギリスに渡り秘書学と英文タイプを学ぶ。69年帰国し外資系企業に就職。71年オーストラリアの市場会社ピーエーエスエー社に社長秘書として入社。73年同社退職後、帰国。同年5月、テンプスタッフ(株)を設立、代表取締役社長に就任、現在にいたる。

【会社クレジット】
テンプスタッフ
【本 社】東京都渋谷区代々木2-1-1 新宿マインズタワー
【設 立】1973年5月
【T E L 】 03-5350-1212
【資本金】9億9200万円
【売上高】2288億円(連結/07年3月期)
【従業員】2169人(連結/07年3月31日)
【事業内容】一般労働者派遣事業、有料職業紹介事業、保育事業
【U R L】http://www.tempstaff.co.jp/

※記事は作成日時点のデータですので、あらかじめご了承ください。

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