俺は「住」で低価格を実現してやる
<ベンチャースピリッツ>タマホーム社長 玉木康裕
タマホーム社長 玉木康裕/文・市川昭彦(2007年11月29日更新)
時代が変わるとき、必ず“常識外れ”の先駆者が登場する。「坪単価25万8000円」「自由設計の注文住宅」という建設業界の常識を破る戦略で売り上げを毎年倍増させてきたのがタマホームだ。地方の一工務店から独立・起業した当時、誰もが信じなかった男の夢は、設立後わずか9年で日本の枠を超えて世界を視野に入れはじめた。
わずか4人で設立された会社が9年後に社員2700人に急成長
戦後最長といわれる景気拡大のさなかにあって、建設業界は決して順風とはいえない。公共事業の縮小、少子・高齢化による需要の伸び悩み。そんな構造的なマイナス要因を抱える建設業界にあって、設立以来、毎年、売り上げを倍増させてきたのがタマホームだ。
坪単価25万8000円と従来のおよそ半額の建築費用や、顧客の“わがまま”に最大限応える「自由設計の注文住宅」を売り物に、業界の常識を次々と打ち破って急成長を遂げてきたタマホームは、その設立当初から“常識外れ”だった。
「目標 株式上場 1兆円企業 日本一」――。1998年6月。福岡県筑後市で設立したばかりの会社のホワイトボードに、玉木康裕はこんな言葉を書いた。当時、玉木のほかにわずか3人しかいなかった社員は、ただ目を丸くするばかりだった。
「社長は頭がおかしいんじゃないか。業者にも銀行にも、社員にまでそう言われましたよ。でも私にしてみれば、絶対に成功するという自信があったのです」。だが、設立当初に玉木の描いた夢はあまりにも壮大過ぎる――当時は誰の目にもそう見えた。そして創業から9年。いま、玉木の夢を笑う者は誰もいなくなった。
タマホームは地元の九州を振り出しに、中国、関西、東海地方へと積極果敢な出店戦略を進め、05年にはついに本社を東京に移転して関東への進出を果たした。いまや支店がないのは北海道、青森、沖縄だけとなったが、その空白地帯も来春までに埋められ、文字通りの全国展開が実現することになる。
わずか3人だった社員数は2700人を超えた(07年11月現在)。受注は毎年増え、最近4年間の売り上げを見ても226億円、456億円、809億円と、毎年倍増を続ける。07年5月期には売り上げ1290億円を達成、今期は2000億円の売り上げを見込む。この勢いで成長を続ければ、「1兆円企業」「日本一」の夢もほどなく実現することになる。それどころではない。「いまや売り上げ2兆円が目標」と玉木は豪語する。
一介の町の工務店から独立したタマホームは、わずか9年の間に、なぜここまでの急成長を遂げることができたのか。
不景気が「何もせんむ」に「住宅業界のユニクロ」を作ると決意させた
玉木の左手人差し指の付け根にはかすかな傷跡がある。建設現場での作業中に誤ってカッターで切った傷だ。指がブランとぶら下がり血が噴き出した傷は5針縫ってつながった。玉木の体には全身にこんな傷跡が残っている。
「大学を出て会社に入ってから4~5年は職人さんたちと一緒に現場で地下足袋をはいてトントン、カチカチやっていました。建築の仕事は体で覚えてきた。建築の世界で40年も経験を積んだうえで独立創業したのです。そこらのポッと出の経営者と一緒にしてほしくないですね」
地元の福岡大学を卒業した玉木は、父の経営する筑後興産に入社する。筑後興産は明治時代に玉木の祖父が創業した老舗だが、玉木が入社した当時は従業員40人ばかりの「町の工務店」というにふさわしい建設会社だった。社長となった兄とともに後継者として専務を務めていた玉木が、筑後興産の建築、設計、不動産、土木部門を分離独立して新たに創業したのがタマホームだ。建設業は知り尽くしている――。
その証拠が全身に残る傷跡だ。創業の際、それが玉木の「自信」にもなった。筑後興産は公共事業主体に安定した受注があり、会社は無借金経営を続けてきた。あえて冒険をしなくても、地方の工務店の専務としてそのまま終わる人生も選択肢にはあったと玉木は言う。玉木の人生の風向きが変わったのは、世の中が平成不況の入り口に入った頃だ。建設業も底なしの不景気に見舞われた。
「例えば、県営住宅の受注価格が1年で1割も下がるわけですよ。これではやっていけん。私も40歳になっていたから、いったい何をやって食っていったらいいのだろうか、と。でも、どんなに不景気になっても人間が住む家だけは決してなくならないだろうと考えた。ならば原点に戻って住宅をちゃんとやろうと」
では、どんな住宅が消費者に受け入れられるのか。ヒントはほかの業界にあった。当時、日の出の勢いで急成長していたのが福岡の隣県・山口県を発祥とする「ユニクロ」のファーストリテイリングである。近所の店をのぞくと、そこは若者にかぎらず、子供連れや年配者などあらゆる年齢層の客であふれていた。
大分市に本社を置くファミリーレストラン「ジョイフル」の繁盛ぶりにも衝撃を受けた。コーヒー1杯がわずか150円。大学を卒業した頃と同じ値段だった。「この値段でやっていけるのか」。レジで支払うときに聞いてみると、「今後、全国展開する」という。カルチャーショックを受けた。ユニクロもジョイフルも、共通するのは徹底した低価格路線である。
「衣・食・住のうち、衣はユニクロ、食はジョイフルがやって成功している。よし、じゃあ、俺は住で低価格を実現してやると思った」。さっそく会社に戻ると、当時の総務部長に言った。「坪当たりの価格を半額にできないか」当時、筑後興産にかぎらず、一戸建て住宅の坪当たり単価は約50万円というのが常識だった。それを半額の25万円前後にできないかと持ちかけたのである。
「専務、頭おかしいんじゃないですか」。総務部長はあきれ顔で言った。うちは利益率が2割。坪当たり原価40万円ですよ。どこをどう削れば25万円にできるのですか」玉木もあきらめない。「坪25万円で質を落とさずに作ったら絶対に売れるぞ」。だが、総務部長はあくまで冷静だった。「当たり前ですよ。でも、それじゃ損するじゃないですか」。“常識外れ”の玉木はここから本領を発揮する。
流通の簡素化でマージンを廃し工期の短縮で人件費を削減して「坪単価半額」を実現
「高品質で低価格の家を作る」――。創業以来、いまも変わらぬタマホームの企業理念である。そのモデルはアメリカにあった。玉木は80年にアメリカの大学に聴講生として短期留学している。そのとき数多くの個人住宅を訪れてさまざま建築現場を見て歩いた。アメリカの住宅は坪単価30万円前後にもかかわらず日本とは比較にならないほどグレードが高かった。土地代の違いを考慮しても、あまりに大きな日米の住宅価格差に衝撃を受け、「いつか日本でもアメリカのような高品質で低価格の家を作る」と心に誓ったのである。
こうして建築業界の常識を破る「坪当たり単価25万8000円の家」が開発される。92年のことである。それまで不可能とされてきた低価格化はどうして可能になったのか。「なぜ、坪当たり50万円もかかるのか。その原因を徹底的に突き詰めたわけです。そうしたら、日本の建設業界独特の慣習が背景にあることがわかったのです」
住宅の建設費は大まかにいって、資材費、工事費、人件費に利益を加えた積み上げ方式で決まる。こうした費用に、さらにマージンが上乗せされるのが一般的だった。タマホームでは、資材の調達に直取引を導入した。そのことで無駄なマージンを省くことができた。資材メーカーが直接取引を渋るとき、玉木はこんな決めぜりふで相手を説得した。
「うちは将来、日本一になる会社です。いま売っておいたほうがおたくのためになりますよ」。ここでも玉木は日本的な流通慣行を破る“常識外れ”を実行してみせたのである。工事費、人件費の高騰も住宅の建設価格を押し上げる要因だ。タマホームでは工期の短縮によってコストの大幅削減を可能にした。従来は4カ月から半年かかっていた一戸建て住宅の工期を、50坪までの大きさなら60日に短縮した「高品質で低価格の家」を作るノウハウはできた。だが、もう1つの壁があった。いちばん苦労したのは旧態依然たる建築業界への啓蒙だったと玉木は振り返る。
「大工や左官といった職人は腕がいいほどプライドが高い。その分、保守性も強いから新しいことには警戒する。こうした職人さんが、安売りなんて冗談じゃないとまったく相手にしてくれない。そうじゃないんだと。値段は安くても品質を落とすわけじゃないんだと、説得するのが最も大変でした」ここでも「うちは将来、日本一になる」のひと言が決め手になったという。筑後興産でノウハウを蓄積した玉木は、やがて独立・起業への手応えを感じるようになる。創業当初、「日本一」の目標を掲げたとき、すでに心中に目標を達成する確信はあったのだ。
低い山に登るのは誰にもできる
最初から富士山を目指す者が成功を手にする
自信満々でタマホームを創業した玉木だが、最初から順風満帆だったわけではない。「自信満々でしたから社員も何十人もついて来ると思った。ところが3人しか来ない。そのとき生まれて初めて『反省』というものをしました。それまで、悪いことは社員の責任にしていた部分もあったが、これからは俺が全部責任を取る、と。もし失敗したら腹を切る覚悟でした」玉木についてきた3人のなか、半額住宅に強く反対したあの総務部長もいた。
強気一本の玉木が一度だけ弱気になったことがある。00年の元日、筑後市にモデルハウス1号店をオープンさせたときのことだ。当時まだ月商3000万円の頃に700万円をかけてテレビCMを打った。大勝負だった。『ジングルベル』に似たメロディのCMソングを玉木が自ら作って流した。
そしてやってきた1月1日、九州には珍しい大雪が降った。こんな天候では客が1人も来ないのではないか。そうなれば借金も返せず、それこそ「腹を切る」しかない。ふてくされて休憩所でたばこを吸っていた。昼になっても社員が1人も帰ってこないので見に行ったら、雪の中、田んぼの真ん中にある店に長い行列ができていた。涙で頬を濡らしながら「勝った!」と玉木は思った。
その日以来、玉木は“勝ちっぱなし”と言っていい。「株式上場」「1兆円企業」「日本一」といった目標も射程圏内に入ってきた。だが、夢はそこにとどまらない。「TH」と書かれたタマホームの会社のロゴマークは球体、つまり地球儀を表わしている。
「今後は日本国内にとどまらず、東南アジア、そして将来はアメリカにも進出するというのが設立当初からの夢でした。こんな極東の島国で収まるような会社じゃないぞと」。わずか3人からスタートしたタマホームは現在、社員2600人を数える大企業となった。会社が急速に発展すればするほど、人材の育成が重要な課題となる。去年は2カ月がかりで全社員と面接して話をした。
「私がいつも社員に言うのは、低い山に登るのは簡単だ、俺は最初から富士山を目指すぞということです。うちの会社には、富士山に登りましょうという奴が集まって来ているんだと。志が高い人間のところに志が高い連中が集まってくるということです」
どんな経営者にも人知れず苦労した経験があるに違いない。タマホームもその船出から決して楽な道のりばかりではなかった。だが、玉木は「苦労したことなどない」と明快に否定してみせた。
「私の口ぐせは『人生面白おかしく』なんですよ。まあ、福岡の楽天的というかラテン民族的な風土で育ったからでしょうかね。だって、そうでしょ。いい家を作れば、お客様の大切なお金を何千万円もいただいたうえに、感謝までされる。こんないい人生ありませんよ」
こう言って、大声で笑う。描く夢のスケールの大きさと、挫折をものともしない底知れぬ明るさは、九州男児そのものである。
(敬称略)
タマホーム社長 玉木康裕
【プロフィール】
<たまき・やすひろ>1950年福岡県生まれ。福岡大学卒業後、実父が経営する建設会社、筑後興産に入社。80年、アメリカの大学に聴講生として留学、アメリカ建築事情を学ぶ。その際、日米の住宅の価格差に衝撃を受ける。92年、坪単価約25万円と従来の半額の低価格住宅の販売を開始。98年、筑後興産の土木・建築・設計・不動産部門をタマホーム株式会社として分離独立、代表取締役社長に就任。05年6月、東京都港区に現在の本社を開設した。
会社クレジット】
タマホーム
【本社所在地】〒108-0074 東京都港区高輪3-22-9
【設 立】1998年6月
【T E L】 03-6408-1200
【資本金】7億7350万円
【売上高】1290億万円(07年5月期連結)
【従業員】2700人(07年11月)
【事業内容】建築、設計、不動産業、土木
【URL】http://www.tamahome.jp
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坪単価25万8000円と従来のおよそ半額の建築費用や、顧客の“わがまま”に最大限応える「自由設計の注文住宅」を売り物に、業界の常識を次々と打ち破って急成長を遂げてきたタマホームは、その設立当初から“常識外れ”だった。
「目標 株式上場 1兆円企業 日本一」――。1998年6月。福岡県筑後市で設立したばかりの会社のホワイトボードに、玉木康裕はこんな言葉を書いた。当時、玉木のほかにわずか3人しかいなかった社員は、ただ目を丸くするばかりだった。
「社長は頭がおかしいんじゃないか。業者にも銀行にも、社員にまでそう言われましたよ。でも私にしてみれば、絶対に成功するという自信があったのです」。だが、設立当初に玉木の描いた夢はあまりにも壮大過ぎる――当時は誰の目にもそう見えた。そして創業から9年。いま、玉木の夢を笑う者は誰もいなくなった。
タマホームは地元の九州を振り出しに、中国、関西、東海地方へと積極果敢な出店戦略を進め、05年にはついに本社を東京に移転して関東への進出を果たした。いまや支店がないのは北海道、青森、沖縄だけとなったが、その空白地帯も来春までに埋められ、文字通りの全国展開が実現することになる。
![]() 4人でスタートしたタマホーム。当時から玉木(右から2人目)の志は高く、「目標 株式上場 1兆円企業 日本一」。町の工務店は急成長を遂げた。 |
一介の町の工務店から独立したタマホームは、わずか9年の間に、なぜここまでの急成長を遂げることができたのか。
不景気が「何もせんむ」に「住宅業界のユニクロ」を作ると決意させた
玉木の左手人差し指の付け根にはかすかな傷跡がある。建設現場での作業中に誤ってカッターで切った傷だ。指がブランとぶら下がり血が噴き出した傷は5針縫ってつながった。玉木の体には全身にこんな傷跡が残っている。
「大学を出て会社に入ってから4~5年は職人さんたちと一緒に現場で地下足袋をはいてトントン、カチカチやっていました。建築の仕事は体で覚えてきた。建築の世界で40年も経験を積んだうえで独立創業したのです。そこらのポッと出の経営者と一緒にしてほしくないですね」
地元の福岡大学を卒業した玉木は、父の経営する筑後興産に入社する。筑後興産は明治時代に玉木の祖父が創業した老舗だが、玉木が入社した当時は従業員40人ばかりの「町の工務店」というにふさわしい建設会社だった。社長となった兄とともに後継者として専務を務めていた玉木が、筑後興産の建築、設計、不動産、土木部門を分離独立して新たに創業したのがタマホームだ。建設業は知り尽くしている――。
その証拠が全身に残る傷跡だ。創業の際、それが玉木の「自信」にもなった。筑後興産は公共事業主体に安定した受注があり、会社は無借金経営を続けてきた。あえて冒険をしなくても、地方の工務店の専務としてそのまま終わる人生も選択肢にはあったと玉木は言う。玉木の人生の風向きが変わったのは、世の中が平成不況の入り口に入った頃だ。建設業も底なしの不景気に見舞われた。
「例えば、県営住宅の受注価格が1年で1割も下がるわけですよ。これではやっていけん。私も40歳になっていたから、いったい何をやって食っていったらいいのだろうか、と。でも、どんなに不景気になっても人間が住む家だけは決してなくならないだろうと考えた。ならば原点に戻って住宅をちゃんとやろうと」
では、どんな住宅が消費者に受け入れられるのか。ヒントはほかの業界にあった。当時、日の出の勢いで急成長していたのが福岡の隣県・山口県を発祥とする「ユニクロ」のファーストリテイリングである。近所の店をのぞくと、そこは若者にかぎらず、子供連れや年配者などあらゆる年齢層の客であふれていた。
大分市に本社を置くファミリーレストラン「ジョイフル」の繁盛ぶりにも衝撃を受けた。コーヒー1杯がわずか150円。大学を卒業した頃と同じ値段だった。「この値段でやっていけるのか」。レジで支払うときに聞いてみると、「今後、全国展開する」という。カルチャーショックを受けた。ユニクロもジョイフルも、共通するのは徹底した低価格路線である。
「衣・食・住のうち、衣はユニクロ、食はジョイフルがやって成功している。よし、じゃあ、俺は住で低価格を実現してやると思った」。さっそく会社に戻ると、当時の総務部長に言った。「坪当たりの価格を半額にできないか」当時、筑後興産にかぎらず、一戸建て住宅の坪当たり単価は約50万円というのが常識だった。それを半額の25万円前後にできないかと持ちかけたのである。
「専務、頭おかしいんじゃないですか」。総務部長はあきれ顔で言った。うちは利益率が2割。坪当たり原価40万円ですよ。どこをどう削れば25万円にできるのですか」玉木もあきらめない。「坪25万円で質を落とさずに作ったら絶対に売れるぞ」。だが、総務部長はあくまで冷静だった。「当たり前ですよ。でも、それじゃ損するじゃないですか」。“常識外れ”の玉木はここから本領を発揮する。
流通の簡素化でマージンを廃し工期の短縮で人件費を削減して「坪単価半額」を実現
「高品質で低価格の家を作る」――。創業以来、いまも変わらぬタマホームの企業理念である。そのモデルはアメリカにあった。玉木は80年にアメリカの大学に聴講生として短期留学している。そのとき数多くの個人住宅を訪れてさまざま建築現場を見て歩いた。アメリカの住宅は坪単価30万円前後にもかかわらず日本とは比較にならないほどグレードが高かった。土地代の違いを考慮しても、あまりに大きな日米の住宅価格差に衝撃を受け、「いつか日本でもアメリカのような高品質で低価格の家を作る」と心に誓ったのである。
こうして建築業界の常識を破る「坪当たり単価25万8000円の家」が開発される。92年のことである。それまで不可能とされてきた低価格化はどうして可能になったのか。「なぜ、坪当たり50万円もかかるのか。その原因を徹底的に突き詰めたわけです。そうしたら、日本の建設業界独特の慣習が背景にあることがわかったのです」
![]() 従来の半額の建築費用と自由設計の注文住宅で人気のタマホーム。週末ともなると、展示場に多くの人が集まる。 |
住宅の建設費は大まかにいって、資材費、工事費、人件費に利益を加えた積み上げ方式で決まる。こうした費用に、さらにマージンが上乗せされるのが一般的だった。タマホームでは、資材の調達に直取引を導入した。そのことで無駄なマージンを省くことができた。資材メーカーが直接取引を渋るとき、玉木はこんな決めぜりふで相手を説得した。
「うちは将来、日本一になる会社です。いま売っておいたほうがおたくのためになりますよ」。ここでも玉木は日本的な流通慣行を破る“常識外れ”を実行してみせたのである。工事費、人件費の高騰も住宅の建設価格を押し上げる要因だ。タマホームでは工期の短縮によってコストの大幅削減を可能にした。従来は4カ月から半年かかっていた一戸建て住宅の工期を、50坪までの大きさなら60日に短縮した「高品質で低価格の家」を作るノウハウはできた。だが、もう1つの壁があった。いちばん苦労したのは旧態依然たる建築業界への啓蒙だったと玉木は振り返る。
「大工や左官といった職人は腕がいいほどプライドが高い。その分、保守性も強いから新しいことには警戒する。こうした職人さんが、安売りなんて冗談じゃないとまったく相手にしてくれない。そうじゃないんだと。値段は安くても品質を落とすわけじゃないんだと、説得するのが最も大変でした」ここでも「うちは将来、日本一になる」のひと言が決め手になったという。筑後興産でノウハウを蓄積した玉木は、やがて独立・起業への手応えを感じるようになる。創業当初、「日本一」の目標を掲げたとき、すでに心中に目標を達成する確信はあったのだ。
低い山に登るのは誰にもできる
最初から富士山を目指す者が成功を手にする
自信満々でタマホームを創業した玉木だが、最初から順風満帆だったわけではない。「自信満々でしたから社員も何十人もついて来ると思った。ところが3人しか来ない。そのとき生まれて初めて『反省』というものをしました。それまで、悪いことは社員の責任にしていた部分もあったが、これからは俺が全部責任を取る、と。もし失敗したら腹を切る覚悟でした」玉木についてきた3人のなか、半額住宅に強く反対したあの総務部長もいた。
強気一本の玉木が一度だけ弱気になったことがある。00年の元日、筑後市にモデルハウス1号店をオープンさせたときのことだ。当時まだ月商3000万円の頃に700万円をかけてテレビCMを打った。大勝負だった。『ジングルベル』に似たメロディのCMソングを玉木が自ら作って流した。
![]() 一番人気の「大安心の家」シリーズ。オール電化で坪単価25万8000円から。ニューファミリーから高齢者まで幅広い層の支持を集める。 |
その日以来、玉木は“勝ちっぱなし”と言っていい。「株式上場」「1兆円企業」「日本一」といった目標も射程圏内に入ってきた。だが、夢はそこにとどまらない。「TH」と書かれたタマホームの会社のロゴマークは球体、つまり地球儀を表わしている。
「今後は日本国内にとどまらず、東南アジア、そして将来はアメリカにも進出するというのが設立当初からの夢でした。こんな極東の島国で収まるような会社じゃないぞと」。わずか3人からスタートしたタマホームは現在、社員2600人を数える大企業となった。会社が急速に発展すればするほど、人材の育成が重要な課題となる。去年は2カ月がかりで全社員と面接して話をした。
「私がいつも社員に言うのは、低い山に登るのは簡単だ、俺は最初から富士山を目指すぞということです。うちの会社には、富士山に登りましょうという奴が集まって来ているんだと。志が高い人間のところに志が高い連中が集まってくるということです」
どんな経営者にも人知れず苦労した経験があるに違いない。タマホームもその船出から決して楽な道のりばかりではなかった。だが、玉木は「苦労したことなどない」と明快に否定してみせた。
「私の口ぐせは『人生面白おかしく』なんですよ。まあ、福岡の楽天的というかラテン民族的な風土で育ったからでしょうかね。だって、そうでしょ。いい家を作れば、お客様の大切なお金を何千万円もいただいたうえに、感謝までされる。こんないい人生ありませんよ」
こう言って、大声で笑う。描く夢のスケールの大きさと、挫折をものともしない底知れぬ明るさは、九州男児そのものである。
(敬称略)
タマホーム社長 玉木康裕
【プロフィール】
<たまき・やすひろ>1950年福岡県生まれ。福岡大学卒業後、実父が経営する建設会社、筑後興産に入社。80年、アメリカの大学に聴講生として留学、アメリカ建築事情を学ぶ。その際、日米の住宅の価格差に衝撃を受ける。92年、坪単価約25万円と従来の半額の低価格住宅の販売を開始。98年、筑後興産の土木・建築・設計・不動産部門をタマホーム株式会社として分離独立、代表取締役社長に就任。05年6月、東京都港区に現在の本社を開設した。
会社クレジット】
タマホーム
【本社所在地】〒108-0074 東京都港区高輪3-22-9
【設 立】1998年6月
【T E L】 03-6408-1200
【資本金】7億7350万円
【売上高】1290億万円(07年5月期連結)
【従業員】2700人(07年11月)
【事業内容】建築、設計、不動産業、土木
【URL】http://www.tamahome.jp
※記事は作成日時点のデータですので、あらかじめご了承ください。


















